2010/02/27(sat) 21:30 「よければ一緒に」

いろいろあるわ、いろいろと。
いろいろない人生もつまらんだろうけど。
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今日の更新も、
newscrap。
本業の方ではそれなりに忙しくやっているのですが、
なかなかここのgalleryに載せられるようなものを
作る機会がなく、ちょっと寂しい感じです。
過去に作らせてもらった作品を、
掲載させてもらえるかちょっと頼んでみようかな…
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今年で勤続10年目になるウチの会社、
この春から
大きく組織体制が変わることになりました。
アートディレクター的な仕事をさせてもらっている僕の所属は、
今までのクリエイティブ局からコミュニケーション・デザイン局へ。
いわゆる従来型の呼び方でいう総合系広告代理店の中で、
「クリエイティブ」とか「制作」とかいう言葉のついた部署が
なくなるというのは、かつてなかったことかも知れません。
生活者の意識も広告を取り巻く環境も
この10年近くでこれだけ激変しているわけですから、
それらと関わって生きていく僕達の意識も組織も
どんどん変わっていかなきゃいけないわけで、
その意味で今回の変化は前向きでいいのかなと思います。
人の心や商品が動くための面白い仕組みや表現を考える、
という役割は今までと全く変わらないわけだし、逆にこれからは
もっと真剣にそのことを考えなきゃいけないということかなと。
何せコミュニケーションをデザインするわけですからね…
大きく出たなって感じですよね。
というわけで…
広告業界を目指して就職活動中の学生さん、
しんどいだろうけど前向きに頑張って夢を叶えてねー!
僕でよければ、連絡くれればいつでも相談に乗るからねー!
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・3月中旬に予定していた海外出張、
渡航先の政情不安がどうこうとかの理由で、
早くても
5月中旬頃まで延期になりそうな気配。
ちょっと残念ではあるけど、滞在中にクーデターとかが起きて
現地で身動きできなくなったりしても困るし、しょうがないか…
ということなので、
3月はお仕事のキャパシティに若干の余裕がございます。
お声がけ心よりお待ちしております。
・海外ドラマ
「HEROES」のSeason3を何話か観ている。
面白いか面白くないかといえば面白い方なんだけど、
やはりSeason1よりは気分が盛り上がらない感じ。
続編の脚本ってホントに難しいもんですね。
・昨年9月末、挙式の直前に行ったコンサートで初めて聴いた、
KANの新曲「よければ一緒に」
妻は会場で、歌詞に感動して泣いていました。
僕達2人のこれからのテーマソングにしようと思います。
KANさん本当にありがとう。
2010/02/20(sat) 23:45 「ラテンの血が騒ぐの」

バーボンのロック1杯とビール1缶でグラグラに酔う。
何とも安上がりな体になっております。
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今日の更新も、ていうかここ最近続いているけど、
newscrap。
10年大阪を散歩していますが、飽きることがありません。
東京出張の時にもまとまった時間が作れれば、
まだ行ったことのない下町を散策したいんだけどなぁ。
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昨年秋の挙式から半年ほどの時間が空きましたが、
4月に入ったらちょっと新婚旅行的な旅に行こうと思っています。
巻き舌での発音がポイントになる感じの国です。
完全主義かつ心配性過ぎな性格の妻は、
「地球の歩き方」の読み込みと現地語の学習に余念がありません。
でも巻き舌のマスターはまだのようで、毎朝毎晩すごい顔して
「ちょっと待ったりりりぃりrぃりりr」とか言ってます。
地元の人々に、妻の渾身の巻き舌が通じるかどうか、楽しみです。
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・大阪に住んでまる10年になるけど、何故か今まで
一度も行っていなかったお好み焼きの名店
「きじ」に、
今日初めて行ってきた。いやー、美味し過ぎた。
関西に住んでいて幸せだと思えることのひとつは、
お好み焼きやたこ焼きの美味しいお店が沢山あって、
しかも安いこと。
・自転車大好きな同僚に、
品揃えが最高な自転車屋さんに連れてってもらった。
楽しかったけど、今乗ってるのが壊れてもいないのに
新しいのが欲しくなっていかんわ。
・自分探しの旅に出るほど自分を見失ってはいないけど、
たまには立ち止まって考える時間も必要なのかも知れない。
思い返せばここ数年、無理に自分を前向きに、
前だけを見るようにと矯正し過ぎていたような気もする。
そんなカラ元気気味の自分に、少し疲れてしまったのだろうか。
たまには意図的に、自覚的に、昔のようにゆっくりと
混濁した意識の底へ沈んでみることも必要なのではないだろうか。
頂点に昇らなければ見えない景色があるように、
どん底から見上げることで初めて見えてくる景色もある、
のかも知れない。
うーん、釜山1人旅とか行ってこようかな…
2010/02/09(tue) 02:30 「知らない街を」

FFXIIIは、一応クリアしました。
何だかんだいって、結構面白かったです。
でも最近のRPGって、クリアした後にやりこむための
ものすごい量の
「おまけ」があるから、
エンディングを観ても達成感が薄いスよねー
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今日の更新も、前回に続いて
newscrap。
一見何の関係もなさそうに見える
大げさなコピーと驚きのビジュアルですが、
実はそれには深い根拠があって納得、
でもよく考えるとそれってどうなの的な看板です。
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最近特に頭の中が混沌としています。
まとまらない断片を、そのまま言語化する試み。
・新幹線で睡眠をとらずに過ごしている時に
車窓から見える、名前も知らない山間の小さな街。
いや、街というよりは村という言葉が近いか…
何度も何度も見ているから風景は完璧に覚えているけど、
降り立ったことはない。きっとこの先も…
故郷を出て都会に長く住むと、田舎の風景が恋しい。
そんなことを考えながら車内でうとうとしていると、
仕事を放り出して新幹線を飛び降り、
その村を訪ねそこに住み着くという夢を見た。
土と緑と埃の匂いが懐かしくて、
何だか悪い気はしなかったな。
・人の数が多い環境だからこそあえて、
人のことを見ないようにする。
情報量が多い環境だからこそあえて、
必要な情報以外を知らないようにする。
前向きなのか後ろ向きなのか自分でも分からない、
そんな練習をしてみる。
昔よく読んだ倉本聡の著作の中に、
「知らん権利」という言葉があった。
明るく生きていくためには、知る必要のない事実も、
知らないように努力する必要のある事実も、
けっこうあるのだろう。
無知の知と無意味の意味。
情報過多・神経過敏なこの時代にこそ、
もう一度見直されるべき考え方なのかも知れない。
・3月中旬に、タイへ行くことになりました。
一応、観光ではなくて
お仕事関連の視察的な動きです。
微笑みの国に、しかめっ面して乗り込む予定です。
現地でお会いできそうな日本人の皆様、遊んで下さい。
2010/02/01(mon) 01:30 「context」

長い人生的な道は迷いたくないけど、
散歩的な道には積極的に迷っていきたいわけです。
普段歩かない道、まだ歩いたことのない道、
目的地だけを見ていては気づかない怪しい道が、
都会の中心にもまだまだ沢山あるんです。
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今日の更新は、
newscrap。しびれるコピーです。
ガシャポンにはまだまだ可能性を感じます。
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頭の中でモヤっていることをあえてキチンとまとめずに
ずるずると垂れ流しているこの頃。
それもいいだろう。だってここは僕が作ったWebサイトだからね。
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ある知り合いのクリエイターが昔、
自分の創作のモチベーションは「怒り」だ、と語っていた。
すごく印象的な話だったので、数年経った今でも覚えている。
彼と同じように不機嫌でいることが未だに多い僕はしかし、
そのスタイルを真似することができない。
というか、そういうやり方って、僕の場合は芸が荒れそう。
では僕はそこら辺どうなのかというと、
いちど心がネガティブな方向にシフトしてしまうと、
何かを発想するということそのものが、殆どできなくなる。
これは我ながら、かなり致命的な弱点だ。
ある漫画の受け売りみたいに聞こえるかも知れないが、
僕はとにかくいつでも、あらゆる出来事に「納得」したいと考えている。
屁理屈・不条理・大人の事情で自分のポリシーが曲げられた時、
今までこつこつ積み上げてきたものごとを拒絶し
そこで全部をヤメたくなってしまうのだ。
あらゆる事象が理路整然と割り切れるようにできているのならば、
今世界がこんなにギリギリのバランスでしか均衡を保てないはずがない。
そのことを理解した上で、清濁あわせ飲みできる限りのことをするのが
真っ当な大人の目指すべきスタイルなのだ。そう頭では理解している。
なのに、体がまだそれを拒んでしまう。未熟な自分を悲しく思う。
アホみたいな結論になってしまうけど…
誰とでも上手く付き合えて (少なくともそのように見えて)
自他共に「納得」できるものづくりを続けている先輩達の姿を見て、
そのスタイルを見習っていくしかないんだろうな…
いつもものごとに「納得」して上機嫌でいるように見える人達は、
自然にそういう状態にあるのではなく、きっとみんな、
見えないところですごく苦労をしているのだろうと思う。
僕に足りないのは、上機嫌でいるための、そういう努力だな。
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最近また大きな挫折を経験した。
その時に深く反省し考えたことは、僕が考えていたしかるべき「納得」は、
果たして万人と価値を共有できる「納得」だったのかどうかということだ。
自分が歩いてきた経験からすれば、これは当然こうであるべき、と考える内容が、
僕と全く違う道を歩いてきた人にとっては、まるで意味の分からない、
偏執的な狂人の絶叫のようにしか感じられなかったのではないか。
10人が居れば、10人が生きてきたそれぞれの人生に基づく
思考とコミュニケーションのコンテキスト (文脈・背景) がある。
たとえば、
雪の国に生まれた子がいた。
散歩が大好きだったある友達と
雪の降り積もる音だけが聞こえる静寂の夜を歩き、
街灯の下でその子が友達に呟いた「寒いね、帰ろうか」という言葉があった。
雪の降る世界に生きたことのない子にとって、
その言葉の文字通りの内容以上の意味を想像することは難しいだろう。
友達は、冷たい雪道を歩くのが少し苦手だった。
その子が呟いた街灯の下は、下水からの湯気で少し暖かく、雪も溶けていた。
友達は街灯の下で足をとめ、その子の顔を見上げた。
その子は夜明けが恐かった。友達といつまでもどこまでも歩きたかった。
その子の唯一の友達は、飼い犬だった。
雪の降る世界に生きたことのない子と僕の、
コンテキストの溝を埋めるための努力とは、
そういった大切な自分の思い出の欠片をひとつひとつ、
どうか理解して欲しいと願いながら、丁寧に伝えることだ。
人と人とのコミュニケーションとは、つまるところ、
そういったコンテキストの溝を埋めるために様々な考えを巡らせ、
今自分と向き合っている人のことを深く想えるかどうかなのだろうと思う。
そうやってお互いのコンテキストを相互に理解し、
コンセンサス (価値共有) を構築できるかどうか。
お互いの価値感の違いを認め、そのことに敬意を抱けるかどうか。
自分にない生き方を知り、取り入れたいと考えられるかどうか。
僕は果たして、
自らが獲得してきた価値感を人に伝える努力を充分にしてきただろうか。
自分との溝が深そうだと感じた人の、長く連なるコンテキストを
積極的に理解しようとしてきたのだろうか。
今冷静に振り返ってみれば、そうは思えない。
自らのコンテキストが簡単に世の中に理解してもらえると信じ込み、
他人が「納得」してくれているかどうかに関して
想いを巡らせる余裕がなかったのではないか。
僕は今、自分と向き合ってくれる人のコンテキストから、
真摯な姿勢でものごとを学ばなければならない。
それが自分を戒め成長させる糧となるだろうし、
そうすることで、自分も今より生きやすくなるのだろうと思う。
そのようにして多くの人から学び成長した自分のコンテキストを、
何らかの形でものづくりとして昇華し世に問うことによって、
顔も知らない誰か1人の心がほんの少しでも明るい方向に動いたならば、
僕が沢山の人に助けられながら今日まで生きてきた
その意味が、そこに生まれる。